■当院の天然歯を大切にする治療法はDr. George Pankey の哲学に基づいています

下記はDr.Pankeyのホームページから「彼の歯科に対しての信念を作り上げた経緯」の部分を一部翻訳してみました。興味がありましたら、お読みください。

The Pankey philosophy of dental practice《歯科治療に関するPankeyの哲学(理念)》

「この理論は多くの歯科医師を指導し、同時に目標となった。多くの点で歯科はまだPankeyの哲学に追いついてない。全ての偉大なる理論と同様、彼の理論を読むと、その理論の奥深さと、新しい意味を持っていること知る。」 この記事は“L.D. Pankey研究所の連載1980年80号”に掲載され、Pankey研究所の了解を得て、再出版された。この理論が適用される領域は、歯科治療のマネイジメント、歯科学理論、歯科チームの構築、歯科戦略の立案である。

L.D. Pankey, D.D.S.  『1925年私は、一生涯二度と抜歯をしないと誓った。』

この決心をした時、ケンタッキー州の小さな町から車を走らせていた。そこで私は最初の18年を過ごすことになったフロリダのCoral Gables(コーラル・ゲーブルズ)に、私の新しい生涯の始まりを思いながら向かっていた。

最近、私は(一生涯二度と抜歯をしないという)誓いが私のキャリアにどういう意味を持っているのか考えている。そして研究所に来る若い歯科医が、私の誓いがどういう経緯で始まったのかを我々のカリキュラムや研修にいれることができれば、より深く理解するに違いないと考えるようになった。

私は1924年、ルイスビル大学の歯学部を卒業し、ケンタッキー州のニューキャッスルに、歯科医として赴任した。その郡は、人口13,500 人で、歯科医は二人しかいなかったが、そのうち一人は年寄りで、定年退職をするところだった。そして、もう一人はその町を離れるところだった。私はその歯科医の後を継いでニューキャッスルの新しい歯科医となった。

診療初日、私は9人の患者を診た。2日目は14人だった。その後は患者の数を数える時間もなかった。私は日が暮れるまで働いた。アマルガムやCRの充填、小さな前歯のブリッジ、抜歯、部分床義歯を製作した。それは、前任者達が104年間やってきたことと同じだった。その町には、それほど前から歯科医師がいたのである。私が着任した時、すでに前任者の前の2人の歯科医師で計94年も務めたことになる。

私は1年6か月間いたが、検査、診断、治療計画ケースごとの説明をする時間はなかった。たとえ、説明をしなければいけないことを知っていたとしても、できなかった。しかし、赴任して1年後、こんな治療ではいけないと考えた。どうしてよいか分からずにいらいらしていたが、患者を教育し、よりよい治療を提供する知識も技術もないのは自分だということに気づかずに患者のせいにしていた。

その頃、私の母から手紙が送られてきた。それによると、「私より2年前に業務を始めた若い歯科医師が母の歯をすべて抜いてしまった。」というのだ。母はまだ44才で若く綺麗な人だったが、彼女は承諾なしの治療を受け、歯を抜かれてしまった。そのころはそれが普通だった。その時、私は“母は歯を失うべきではなかった”と気づかされた。

それ以来、私は“この患者は誰かの母親か、奥さんか、夫か子供か親戚であるはずだ。と考えずに患者を診ることができなくなった”と同時に、“抜歯と義歯は本当にこの患者が望んでいる事か?”と自分に問わずにはいられなかった。

しばらくの間、私が引き継いだ歯科医はフロリダ州に住んでいたので、彼はコーラル ガブレスの美しさや、12月でも1月でも、温かい太陽にヤシの葉が揺らいでいると宣伝文句を手紙に書いて私に送り続けた。その頃ケンタッキー州は、だんだん寒くなり惨めな気持ちになっていたので、私はフロリダボード地域に目を向けることにしました。

フロリダボード地域を見渡すとそこが気に入りました。そして、自分の職業に喜びを感じるような理論をフロリダで完成させる決心をしました。

ケンタッキー州での最後の日は、州裁判の日だった。毎月、第一月曜日には農村の人達が集まって、買い物をしたり、人を訪ねたり、歯を抜いてもらったりしていた。従って歯科医師は歯を抜くためにだけ存在した。

診療最終日には12人の患者から81本の歯を抜いた。一日中診療をすればもっと多くの患者の口にダメージを与えたかも知れないけれど、ニューキャッスルを午後2時に出発し、自分の生き方や仕事のあり方を変えなければならないが、どうしてよいか分からないまま、私はフロリダのCoral Gables(コーラル ガブレス)に引っ越した。

誓い

1925年ハイウェイを長時間の運転中に、私は“母が受けた下手な治療などを考えて”誓いをした。 私は“人々の歯を救うために、残りの人生を捧げる”と誓った。外科治療、保存治療と共に予防こそが私が進むべき道だと。

丁度その時、私はフロリダ州での診療を始めた。今では想像もできないことだが、1920年代では保存療法をうまくやっている歯科医はいなかった。私は保存療法をしている歯科医師を探したが、数えるほどの先駆者しかいなかった。それはちょうど感を頼りに、リンドバーグが飛行機で大西洋を横断したようなものだった。

私は10人の歯科医からなるStudy clubに所属していました。我々は2人のパイオニア(先駆者)をフロリダに招き、それぞれの先生から2週間のコースで実技の指導を受けた。その一人はアーティキュレイターを使い、もう一人は、機能的に考え出されたテクニックを総義歯の製作に用いた。そのテクニックで、義歯の作成がうまくいった。私はインレーやクラウンブリッジにも応用できると考えた。嬉しいことに、それは満足できるものだったが、まだ物足りないものがあった。

1932年に3か月間、診療を休んで、口腔検査、診断、治療計画とそれに応用心理学のコースに参加した。(その頃の私は歯科経済学、人間工学を勉強し、また後になって、時間と運動の理論を勉強した。皆それなりに役にたった。私がNorthwestern大学で勉強していた頃、私の根本的な問題は、「口腔の検査方法を知らなかったことだ」と気づき始めた。結局、治療の基礎は診断にある、それが自分には欠けていたのだ。それで、その基礎を勉強し始めました。

また、その年は、私の治療方法や人生に強い影響を与えた2つの出来事があった。一つはジョージ クレインに会ったことだった。彼には他の人同様に多くの影響を受けた。彼は心理学の博士号をもっていたが、医師仲間に感銘を与えるほどのものではないことを知っていた。 そこで、彼はNorthwestern 大学で心理学を教えながら、医学を勉強していました。

ある日、彼は黒板に4つの要素(仕事、遊び、愛、そして、崇拝であり幸福感)からなる図を描きそれを“人生のクロス”と呼びました。そのクロスはその頃、誰のことかわからなかったが、後になって、恐らく(アリストテレスに始まったことになるかも知れないが…。)、Mayo診療所の Dr. Kepler(ドクター・ケプラー)である。

私はこのバランスのとれた幸福な生活の単純な表現に感動した。そして、私はその図を家に持ちかえり、長い時間を費やして私自身の個人的生活と歯科医学に応用(適用)する努力した。その上で、このシンボルのようなバランスの取れた治療要素は、歯科治療に適用できないだろうと考えた

東邦歯科診療所 院長 吉田直人